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Tomoya.N
変で、不器用で、少しズレたものを愛するグラフィック制作者。
作品、日常、制作の裏側をJournalに記録しています。
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ダダイズムとは何だったのか。意味を壊して、世界を見直す芸術運動
ダダイズムと聞くと、少し難しそうに感じる。
美術史の言葉っぽいし、名前も変だ。
「ダダ」という響きだけ聞くと、何かの冗談みたいにも聞こえる。
でも、ダダイズムは単なる冗談ではない。
むしろ、かなり真剣な芸術運動だった。
真剣すぎる世界に対して、あえて不真面目な態度を取った。
意味ばかり求める社会に対して、あえて意味のわからないものを出した。
美しいものだけを芸術と呼ぶ空気に対して、あえて美しくないものを置いた。
ダダイズムは、世界に向かってこう言ったような運動だと思う。
「その常識、本当に正しいの?」
ダダイズムは、いつ生まれたのか
ダダイズムは、1910年代後半に生まれた芸術運動だ。
中心地のひとつは、スイスのチューリッヒ。
第一次世界大戦の時代、多くの芸術家や詩人たちが、戦争や社会の空気に強い違和感を持っていた。
当時のヨーロッパでは、国、権力、理性、進歩、秩序といった言葉が、大きな顔をしていた。
でも、その「立派な言葉」の先に起きたのが戦争だった。
人間は理性的だ。
文明は進歩している。
社会は正しく動いている。
そう信じていた世界が、大量の破壊と死を生み出してしまった。
それなら、そもそも「理性」や「秩序」って本当に信用できるのか。
ダダイズムは、そういう疑いから生まれた。
たとえるなら、静かな授業中に机をひっくり返すようなもの
ダダイズムを簡単にたとえるなら、静かな授業中に突然、机をひっくり返すような行為に近い。
もちろん、ただ暴れたいわけではない。
先生が黒板にきれいな字で「これが正解です」と書いている。
みんなが黙ってノートを取っている。
でも、その正解そのものがどこかおかしい。
そう感じた人が、手を挙げるのではなく、机をひっくり返す。
「この授業のルール自体、おかしくないですか」
ダダイズムは、そういう態度に近い。
だから、作品もきれいな絵だけではなかった。
新聞や写真を切り貼りしたコラージュ。
偶然に任せて作る作品。
意味の通らない詩。
普通の道具をそのまま美術作品として見せる行為。
そうした表現によって、ダダの作家たちは「芸術らしさ」そのものを疑った。
有名なのは、マルセル・デュシャンの「レディメイド」
ダダイズムを考える上で、とても重要な人物がマルセル・デュシャンだ。
デュシャンは、すでにある日用品を選び、それを美術作品として提示した。
これを「レディメイド」という。
レディメイドとは、簡単に言えば「すでに作られているもの」という意味だ。
たとえば、絵を描く。
彫刻を彫る。
そういう手作業によって作品を作るのが、昔からの美術のイメージだった。
でもデュシャンは、普通のものを選び、それを美術の場所に置いた。
ここで大事なのは、技術ではなく、問いだ。
「これは芸術ではない」と言い切れるのはなぜか。
「美術館にあるから芸術」なのか。
「作家が作ったから芸術」なのか。
「美しいから芸術」なのか。
そもそも、誰がそれを決めているのか。
デュシャンの行為は、作品を作るというより、芸術のルールを揺らす行為だった。
ダダイズムは「めちゃくちゃ」ではなく「めちゃくちゃに見せる批評」
ダダイズムの作品は、一見するとめちゃくちゃに見える。
意味がない。
ふざけている。
子どもっぽい。
雑に見える。
わざと変なことをしているように見える。
でも、それは何も考えていないからではない。
むしろ逆だ。
意味のある言葉が、戦争を正当化することもある。
美しいデザインが、権力の宣伝に使われることもある。
整った秩序が、人を黙らせることもある。
だからダダは、きれいに整えることを疑った。
「正しい形」に従うのではなく、
「正しい形って本当に正しいのか」と問い返した。
ダダイズムは、ただの混乱ではない。
混乱を使って、整いすぎた社会を疑う方法だった。
ダダイズムは、今でもかなり現代的だと思う
ダダイズムは100年以上前の運動だけど、今見ても古くない。
むしろ、今の時代にもかなり近い。
SNSでは、正しい言葉、きれいな写真、整ったプロフィール、わかりやすい価値観が強く見える。
何かを出すときも、意味や理由や肩書きを求められる。
「これは何のためですか」
「どういうコンセプトですか」
「誰に向けていますか」
「何が言いたいんですか」
もちろん、それは大事なことでもある。
でも、全部を説明しきれるものだけが面白いわけではない。
なんで好きなのかわからない。
でも気になる。
意味はわからない。
でも忘れられない。
うまく説明できない。
でも、何かが引っかかる。
そういうものも、ちゃんと表現の中にある。
ダダイズムは、そういう「説明できなさ」を守ってくれる芸術運動でもあると思う。
ダダイズムから学べること
ダダイズムから学べることは、たぶん「変なことをすればいい」ということではない。
もっと大事なのは、当たり前を疑う姿勢だ。
きれいに作ること。
うまく見せること。
意味を伝えること。
正しい形式に合わせること。
それらはもちろん大切だ。
でも、それだけでは息苦しくなることがある。
表現には、少し壊す力も必要だ。
笑う力も必要だ。
ずらす力も必要だ。
意味を作るだけではなく、意味から逃げる力も必要だ。
ダダイズムは、そのことを教えてくれる。
まとめ
ダダイズムは、ただの「変な芸術」ではない。
第一次世界大戦という大きな時代の不安と怒りの中で生まれた、常識への抵抗だった。
美しいものだけが芸術なのか。
意味があるものだけが価値を持つのか。
手で上手に作ったものだけが作品なのか。
社会が正しいと言っているものは、本当に正しいのか。
ダダイズムは、そう問い続けた。
そしてその問いは、今でも生きている。
何かを作るとき、
何かを見せるとき、
何かに違和感を持ったとき、
ダダイズムは小さく背中を押してくれる。
「一度、壊して見てみればいい」
そこからしか見えないものが、たぶんある。

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